第二章
今一番大事な事
それは、何よりも先に環境問題を解決する事
地球環境という自然が正常な状態になるには、長い歳月をかけて築き上げてきた「当たり前の概念」を根本から考え直す事なのだ
それは、自然体でいる、という事
大自然との調和、共存・共栄するための大事な4つの”事”とは
健康で安心・安全な『当たり前』な暮らしは、質の良い衣・食・住によって作られます。植物や自然物と共存・共栄する暮らしは、その恩恵を受け私たちの身体には最も良い事なのです。
そんな植物の恩恵を日常で感じていくことによって、免疫力が上がり身体にも心にも安らぎを与えてくれる。本来の健康とはこのような事。
視覚と情報で満足してはいけません。五感をフルに使った衣・食・住は私たちの失った『感』を取り戻します。
そんな日常を自然と共存する衣・食・住の当たり前を考え直すのです。
健康で安心・安全な生活というのは『植物をはじめとする自然物ともっと共生する生活』ということなのです。人間が地球上に生まれたその時から、植物は私たちにとってかけがえの無い大切な友達です。 これからの100年の暮らしを素晴らしいものにしていくには、今までの『当たり前』だと思っていた『事』実は当たり前ではなかった、ということ。
これからの100年『当たり前』と言い続けることのできる本当の『当たり前』をしっかり考えなくてはいけないのです。
日常とは昼間は働いて、夕方家に帰って家族と過ごす、夜はゆっくりと身体を休めて、また翌日は仕事に行く事の繰り返しが日常です。平凡んな毎日、とは言いますが、暮らしの基礎となり自然との共存という一番重要なことを行なっている”褻”のことを言うのです。霽れと褻と穢れ、と言う日本人特有の世界観が日本人を作り上げてきたのですが、この100年、特に戦後70年の高度成長による豊かな暮らしによって霽れと褻が逆転してしまっていると思われます。豊かになるということは全てに責任を持つ必要があるのです。
自然とは、自然体のことで何もしない事が一番必要な事。自然の摂理とは、システムである。頭で考えて色々と手を加えてできるものではありません。自然のシステムは人の手が一切加えられていない何もしなくても永遠に続くシステムです。しかし、一度壊れると簡単には元には戻らない。そんな中に生活をする私たち人間は自然の一因であることを忘れてはいけないのです。自然の摂理を無視して経済を優先することはシステムにはないことなのです。
この4つの ”事” を念頭に置いた上で、環境問題に直ちに取り組み解決していく事が、何よりも重要な課題なのだ!
あなたは今の自分達の暮らし方が自然と調和していると思いますか?
あなたは今自分が着ている服が、どのようにして作られているか知っていますか?
あなたは毎日美味しくいただいている水や食べ物がどのように作られているか知っていますか?
あなたは毎日睡眠を取る際に使用する寝具、身体を癒す為に入るお風呂や寛ぐ為のリビングの品々は
どのような材料でどの様にして作られているかという事に興味を持った事はありますか?
衣・食・住は、私たちの暮らしの基礎であり、身体を守り、そして作る基礎でもあるのです。
毎日続け、持続しなければならない事は、自然と調和できていますか? 間違っている事はありませんか?
これからもずっと信じ続けることができますか?
信じる為には、まず知識をしっかりと持つことが大事です、そしてよく考えること。
良く分からずに、勝手に信じることは無責任な事。
全てを自分で決められるだけの知識を持他なければならないのです。
自分の身体は自分で守る。
世の中の全ての人々が、そのような気持ちを持たなければならないのです。
地球上に存在する生物や物質は環境を維持するために全て必要なものであり、それぞれが協調し影響し合う事によって価値を生み出す
それは「空」であり「風」であり「火」であり「水」でありそして「土」であり
五大元素として物質となり生物となり輪廻転正する
我々人間はその中の一つの細胞の様なもの
その一つの細胞が作り出す欲望という虚像は、自然の摂理を満足せず環境とは調和をしない
それはやがて増殖し身体を蝕み地球環境を破壊していくこととなる
地球環境を破壊しないためには我々一人一人の持つ欲望という虚像を増殖させないようにしなければならない
我々人間は、「地球の中の環境生命の一つである」ということを忘れてはいけない
衣・食・住の質を高く持つこと、そして質素な暮らしを心がけること、これによって環境は正常に保たれるのです
あえて質を高く持つ、とあるが、自然体の中では普通の事、
虚像により作り出された自然では無い質の物が衣・食・住の基本となってしまったからこその事
欲求は一度満たされると徐々に欲望に変化しその連鎖が始まる
欲望を満たし自らを拡張するために経済は本質を避け儲けを優先し、その連鎖は日に日に高速化している
単発的な満足感を得ることによりそこから地球の劣化が始まりやがては終わりを迎える
経済は常に我々を誘う
惑わされる事なく、その意識を高めていくには全ての ”事” の原点を知る事が重要である
「事」とは、私達の生活の中に現れたり、私達がしたりする事柄をさす
「物」は何らかの作用・機能・状態・関係などとして実現するありさまを言う
そうすることによってできた質の良い質素な暮らしは 衣・食・住 という形で表現され、
その中で自然と調和し、共存・共栄 し続けることで環境を維持していく
私達の暮らしが自然と調和するには、植物達の通訳と手入れが必要となる
地球が生成したとき、人間が生まれたその原点から「物」を見るとそれはEcoの方向にありながら新しいものとなる
そこから何万年も経った現在
急激に進化した現代社会の中でもう一度 ”事” の原点を見つめ直し、”物” のあり方を考え直す
これからの100年に向けて世界中の人々が心から安心・安全と思える環境と調和する暮らしを作り上げる事が求められている
今から100年以上前の日本の生活の様子です。
今よりも遥かに不便な生活だったでしょうが、いたって健康で心は豊かだったでしょう。
何故か幸せそうに見えます。
この暮らしの中には、植物が沢山共存・共栄しているのだ。
着るものはもちろんのこと、食べるものや家具、そして家屋も材料は殆どに植物が使われている。
家の屋根は茅葺で、家具などの表面には防水や抗菌の為に漆が施されたり、着物は抗菌や防虫、または保温のために藍で染められている。
食べるものは玄米に野菜の入った味噌汁に野菜の煮物やお漬物である。
そして畑や水田は農薬や化学肥料などは一切無く、自然農法なのだ。
植物無くしては生活が出来なかった、と言っても過言では無い。
植物には栄養素以外に抗酸化成分であったり殺傷成分であったり、我々生物を助けてくれる薬効成分が沢山含まれている。
そして、その成分は自然環境の中で役に立っているものばかりなのだ。
それは、私達の身体に有効な栄養素だけではなく、いろいろな方法で身体を健康に保つことに役立つ。
今でこそ化学的な証明がなされる様になり、多くの人々に理解してもらいやすくなったのだが、
昔は化学的証明などまったく出来なかったことで、
試行錯誤しながら安心して使うことができるまでには長い年月がかかったことは間違えないであろう。
先人たちにはそれを直感で理解する力が備わっていたのだと思うのである。
さて、私達は病気になってしまったら医者に行き薬を処方される。
薬とは病気そのものを治すものだと思われがちだが、果たしてそうなのだろうか?
頭痛になると頭痛薬を飲む、確かに頭痛は抑えられて気分が軽くなるわけだが、それは痛みを感じる神経を麻痺させているからである。
頭痛の原因を根本から直したわけではないという事だ。
薬は石油から作られたものが殆どとだ言われているし、病気でない細胞にまで影響が出るいわゆる副作用が出る場合があ流。
一時的に改善するためであれば良いでしょうが、継続的に摂取し続けることは決して身体に良いとは言えないであろう。
私たちの身体は、自然の中に順応するもの。
普段から植物や自然物と接することによってその恩恵を得ることが大事なことであり
衣・食・住の中で彼らとしっかり調和していくことによって質の良い質素な暮らしが作られ
身体の中から健康体を作ることができるのだと言えるのだ。
私達の身体は大自然の中の小宇宙なのだ。
人も自然も同じ生理で機能していて全ては連動しているのだ。
漢方とは自然のものを利用して自然治癒力を高めようとする知恵が宿った日本独自の健康哲学である。
人体は 「気」生命エネルギー 「血」組織に栄養を与える血液 「水」血液以外の体液 が、バランスよく滞り無い状態で構成されている
陰陽道五行説では、「木」 「火」 「土」 「金」 「水」 に分類して自然と人事の一切を解釈する考え
五常(仁・義・礼・智・信) 五臓という 「肝」 「心」 「脾」 「肺」 「腎」 に分けられる
そして生薬が 「衣」・「食」・「住」 の中の人体を整えるのだ
この様に身体を正常に維持できることこそが本当の健康であり、安心・安全な暮らしを送れるということではないだろうか。
世の中の全ての " 物 " は、五大元素によってバランスがとられている。
" 物 " は " 事 " から産み出される。
テクノロジーはその " 事 " の質をより一層高める自然の力の補助に必要なのだ。
テクノロジーは自然とのバランスを崩さずに使われる事が大事なのだ。
そうして生み出された"物 "は、物としての役目を終えるとその後は生態系の中で同じく生分解され分子となって土に還っていき、
新しく生まれる ”物” のエネルギーへと生まれ変わり、また繋がっていくのだ。
自然の摂理とは、「地球上に存在する全ての ”物” は繋がっていて循環する」という意味である。
そして植物は全ての生物たちを幸せにしてくれる力を持っているのだという事。
いかに私たちが日常の中で植物と共存・共栄する必要があるかという事を知って欲しい。
事の原点に立ち返ってこれからの100年に向けての暮らしを考えるのだ。
大自然と私たちの暮らしとの通訳をしてくれるのは植物なのだから!
Ecologyとは、科学と自然との調和・共存を目指す事。
生物とそれを取り巻く環境相互関係、自然環境、社会状況を考える事。
人類の長い歴史の中で、植物や鉱物を活用してきたその恩恵を生かした技術をもう一度見直し取り入れることがこれからは重要になるのです。
Safety and Sustainability(安全で持続可能な技術のシステム化を推進し、そして実現することを目的とした活動である)
生産過程から販売に関わる人々や、消費者とそれを取り巻く環境に対して問題が無い様配慮し、危険な薬剤は使用せず、そして染料の採取は環境破壊や種の保存、保全を守る様に考えた技術をシステム化し継続することを目的とします。
また、多くの人々に心地よく安心して使用していただくことのできるモノ作りをしていくことなのです。
これから大きく変わろうとしている私たちの暮らし。
たまたま新型コロナウィルスがきっかけとなったが、そうでなくても近い将来暮らしを変えていかなければならなくなったはずである。
世界中の全ての生物達が、幸せを分かち合える時が来ることを願って。
私たちは、植物を通訳として地球との接し方を学び、自然の摂理の中に全てを完結しできるようにならなければいけないのだ。
全ての ”事” にはバランスが大事なのであり、バランスを崩すと破壊が始まるのだ。
世の中では環境に対する色々な問題が次々と起こっている。
これから先は正確な情報を得、自分の考えをしっかりと持つことが大事だ。
いい加減な情報や誘いには惑わされない様にすることである。
そしてノアの方舟を作ることである。
今の社会はこのまま大きく改善できない限り終息を迎える事が残念ながら考えられる。
経済を利用した発展を第一に生活して行く時代はもう終わりなのだ。
これからは民主主義では私たちの生活は成り立たなくなるだろう。共産主義的な思想が必要となる。そうしないとこれから増え続ける多くの人口を抱えた社会全体を安全に統一する事は出来なくなるだろう。
80億もの人口を皆が幸せに暮らすということは非常に困難なことだ。人口削減計画などの情報もどこからか聞こえてくるが、強制的に人口を削減することなどできる訳がないのだ。
一人一人が正しいと思われる道を選べる様にまずは知識をしっかりと持つことだ。そしてノアの方舟を作るのである。
方舟はいつ出航することになるかはわからないが、すぐにでも準備をしておくことが必要だろう。
それはそう遠くない将来かもしれないのだから。
山車の起源はノアの方舟かもしれない?
祭りの季節に全国各地で大活躍する山車。山車には草花や人形、動物などの装飾物が飾られており、大変興味深いデザインである。このような山車を使ったお祭り行事は、京都や成田の祇園祭だけでなく、全国で開催されている。
これほどまで日本の土壌に根付いた山車文化の起源は、少なくても平安時代にまでさかのぼると言われている。
全国の祇園祭は、海にまつわる行事と絡んでいることが多く、祭神は牛頭天王、素戔嗚尊である。海の統治を任された海神の祖であり、水を支配する八岐の大蛇を退治したことから水を司る神でもある。それ故、各地の祇園祭では牛頭天王だけでなく、海上を漂いながら導く象徴として水神を祭っているところが多く、祇園祭の背景には人と海との和というテーマが秘められていることがわかる。
また、神輿を川や海まで引き込む神輿水中渡御の祭りや、山車の代わりに船を出す御船祭も各地で亜子なわれており、これらは洪水から逃れたことを祝うだけに留まらず、後世において契約の箱が海を渡り、日本の島々に到来したことを記念した行事とも考えられます。
また、神輿や山車の彫刻や飾りには波や鳥のデザインが多数見かけられますが、それはノアが方舟から鳩を放った際、オリーブの若葉を咥えて舞い戻ってきたときに水が引いたことを知ったという旧約聖書の記述と関係しているようだ。神輿の上に置かれた金色の鳥が、その翼を広げ、嘴が小枝を咥えていることは、もはや偶然とは言えないのだ。
ダシという言葉は、「飾り物として出す」ことから「出し車」という言葉が詰まってできたとか、屋台から装飾品の一部を高須用に出してあったことに由来するという説などがある。そこに山車という漢字を当てた理由としては、き巨大な装飾品を備えた車が山のように見あるからというのがごく一般的な見解だが、装飾品と山車との整合性を理解するには問題が残る。また、神の降臨する依り代とも呼ばれる祭礼の山が、神の御神体を移動する車に転じ、それが最終的に山車となったという学説などもあり、真偽のほどは定かではない。ただ、山車にも神輿にも同様の草花、動物、人形などの装飾が使われ、波さえ描かれることが多いのは、洪水神話との関連性を暗示するもの。方舟から放たれた鳩が、オリーブの葉を咥えて帰ってきたことが聖書に記されているということ。これは人類の救いのサインであり、それが山車という言葉に結びついていたのだ。決定づけるものとして山車という発音を持つヘブライ語が存在するということ。
旧約聖書の創世記に実際に使われている言葉であり、それは「若葉が地上に芽生える」という意味を持っている。山車という漢字が当てられたのは、大洪水からの救いが山の上から始まったから。若葉の芽生えを確認し、その方舟から多くの私財が運び出され車に乗せられて地上の隅々まで運ばれたのであろう。祇園祭で用いられる山車の根底にあるテーマは神の救いであり、水没した大地に芽生えた若葉こそ、まさに新しい時代の始まりの象徴だったのだ。